お金の話その⑤

 教習所を退職後、たまにしかまとまった休みが取れないと思って、この時とばかりやりたい事をやろうと思い、東京に旅に出ました。

 以前にも少し触れていると思うので、旅の内容は割愛いたします。www www www。約3ヶ月、多少の退職金もあり、無職でフラフラしていましたが。。。

 さすがに毎月の固定費もあり、蓄えが枯渇し始めましたwww www www。とりあえずの就職活動として、『職安』に初めて登録し、数回通いながら面談とかもしてみました。

 なかなか思うような仕事ってないもんですね〜〜(笑)とりあえず試しに他社の教習所にも面接行ってみたり、普通の企業にも行ってみましたが、何ともパッとしない。

 そんな中、友人からの紹介で地元の『産業廃棄物処理業者』の面接に行きました。これも面接内容等の経緯も以前記載しましたので割愛いたします。

 支払い固定費がそこそこあったので、手取りで最低でも250,000円/月は必要だったので、そこがクリアできないところは再就職することができませんでした。

 ここの面接では、当初給料が手取りで220,000円/月程度と言われたのでお断りしていたのですが、後日『どうしても採用したい』とのことで給料もこちらの要求を飲むとのこと。

 というわけで、スタートの給料は260,000円/月でした。。。多分 www www www。そこから毎年多少の昇給(5〜8,000円/月)と、確か3年目くらいで主任に昇格。手当は20,000円くらいやったかな?

 その後名称が変わって主任→リーダー。手当はそのまま。それから2年ほどでマネージャー(係長?)に昇格手当は30,000円くらい。

 そのあたりでまた位の呼び方と階段が変わって・・・・。専務、常務、部長が取締役等に代わり、ゼネラルマネージャー、マネージャー、リーダーそして平社員。という呼び名になりました。

 ということで、入社5〜6年でかなりに上がらせてもらって、でも給料は手取りで300,000円/月くらいになってました。

 職種は営業管理職、現場の指揮命令、ISO立ち上げからの対応担当、何でもしてました。営業用として『プリウス』を使わせてもらってました。燃料、整備、ETC全て会社負担での自由に使用でも使ってました。

 廃棄物の処理、多少の片付けや解体処理なども、部下を使ってうまいことできていたので、細かい引っ越しとかのゴミとかには困ることはありませんでした。

 給料は世間的には安い方だったかもしれませんでしたが、付加価値が多くあったのでかなり助かってましたねぇwww www www www。

 以前のままでは体験できないような世界を色々体験させてもらって、給料以上のものは頂いてきたと思います。特に競馬関係に関しては、自分は興味があまりなかったので有り難みがわからないこともありましたが、京都競馬場では貴賓席にあたる部屋や、馬主席の使用、優勝馬との綱持ち、パーティ参加。。。

 最終的には凱旋門にも応援として付き添いでしたが行かせてもらいました。今となっては、いい思い出ですwww www www。

 新地のラウンジも、せわしなくてバタバタしながらのものでしたが一晩に3軒〜4軒のハシゴ。自分ではできない飲み方や食べ方でした。個々の店舗からの『お土産』は美味し物が沢山ありました。

 その後、ちょっと会社内で色々改革(改悪???)があり、社員全員の一方的な給料見直しを会長自らやり始め、今までの積み重ねなど関係なくガッツリ減給になる社員が多く出てきました。

 これを皮切りに、数年にかけて毎年給料が不安定になり、それまで稼いでいた現場社員が稼げなくなり、できる社員がゴロゴロ退社していきました。営業にもその波は押し寄せられ、自分も多少の減給はあったものの、現場社員ほどの引かれ方はしませんでした。(元々安かったしwww www。)

 さらにそれから数年、ちょっとしたきっかけで営業職から現場職に飛ばされ、現場で管理も含めながらですが、現場作業をさせられました・・・。最終給料は手取りで350,000円/月。現場社員としてはかなりいい方だったのかもしれませんが、。。。

 その後数年して、色々問題が発生し、その会社を退職することになりました。多少強引なやめ方をしたために15年ほど在籍しましたが、退職金は支給されませんでした。

 訴えることもできたのですが、長年色々体験させてもらったこともあり、その辺を加味して何もせずにそのまま退職を受け入れました。

 さて、次回はとうとう現職の『某引越屋さん』のお話です。現職なので思い出すってことではなく、今現在の報告になりますねwww www www。

 また後日、もしよろしければお付き合いください。本日もありがとうございました✋

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